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クリエイター:émiko.h /ものづくりびと
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émiko.h /ものづくりびと |
作品世界のキーワード
人と素材の声をききながら、つくっています。
つくったものが、寄り添う存在でいること。
自己紹介
こんなのいいな、と思ったら、つくってしまうので、
アイテムは広がる一方で「何つくってるの?職業は?」と聞かれた時に、
ぴったりなことばが思いつかず、困ってしまうのです。
ただ、素材がすき、人がすきなので、
それぞれのきらきらした魅力を、
つなげる橋みたいになれたらいいな、と思っていろいろつくっています。
ものや、人に出会うことも、つくっている時間も、
それぞれが大好きな時間です。
経歴
2002年 単身、渡仏。
2003年 ATELIER CHARDON SAVARDのディプロム取得後、Chloéをはじめ、
BLESS、Gaspard YURKIEVICHで、インターンとして働く。
同時に、ブランド名 émiko として、デビュー。
パリのセレクトショップ4店でカバン、服を販売開始
(Chez martin , Galalie Simon , Colage , Le Bouclard)
雑誌掲載、展示販売を経て日本でも販売開始のタイミングで帰国。
2005年 émiko の活動休止。
企業で、テキスタイルデザイナーとして働く。
2007年 ブランド名を émiko.h と改め、再び製作をはじめる。
クリエイター x ウッテリエ インタビュー 人とつながっていたい―
人とつながっていたい―。
そうつのる想いが気球のように上空に舞いのぼり、青空いっぱいに“創造のバルーン”が、いくつもふわふわする。バルーンの中に詰まるのは“h(アッシュ)”なイメージ。「つくれ」「つくれ」とイメージが語りかけてくる。
「消えないなあ」とémiko.hさんはつぶやく。「じゃあカタチにするか」
ひらひらと舞いおりてきたシルクの花。思い描いたイメージどおりに染める。いや手染めで色をつくるうちに、アタマでイメージするより、もっとヴィヴィッドな色が生まれることもある。ひらひらと舞い降りた花びらのまわりを、まるで軌道を周回するように、アンティークビーズ、ターコイズやアメジスト、ペリドットなどの天然石が軌道上につらなって、やがて“maria line”ができあがる。
émiko.hさんの代表作『maria line ネックレス』は、こんな創造衝動から生まれた。(model: Dagny photo: Alexandra Rasmussen)
【作品と作り手が語り合う】
自分のことを「ものづくりびと」と言うemiko.hさん、彼女の中にはアーティストとセラピストが同居している。
その作品ラインの創造力は、服飾品の陳列カテゴリーにはおさまりきらない。バッグ、ネックレス、イヤリング、ピアス、リング、小物。どれも買い手のイマジネーションを軽々と超える。ときに表現は“アバンギャルド”、でも作品だけが突っ走るところはない。使い手と小物たち、そしてémiko.hさんが、仲良く並んでベンチに腰掛けて語り合うような光景がひろがる。
作品『人魚』も空からの指令だ。ユーモラスな顔、バナナのような姿態、きゅっと握りたくなる輪郭が楽しい。どうやってこんな世界ができあがってきたのだろうか。
【バルーンスカート】
生れ育った岡山での中学生時代、体育館のコートで“センター”だった。それはバスケットボール。背が高かったので(165cm)フープ下でのジャンプの闘いが役割だった。だがボールを懸命に追いながら、次第にオシャレに目覚めた。
「可愛い服が欲しかったのに背も高いし、岡山には合う服が無くて」。
手足が長くてスマート。どこに行っても合うサイズがない。解決策が“自作のバルーンスカート”。高校生になりバルーンスカートを作った。なんだ、簡単に作れるんだと思った。音楽好きから合唱部に入部したが、そこでもコスチュームづくりが楽しい。2年生になり、進路を考える時期になった。音楽への道も考えたが結局、音楽療法やドルフィンセラピーで自閉症の子ども達を救おうと、大学は人間発達科に進学。
【セラピストよりもデザインを】
「でも・・・イルカが可哀想、と思ったんです」
ドルフィンセラピーでは子どもが癒されても、イルカにもストレスがたまる。加えてカウンセリングをする自分が、相手に対して感情移入をしすぎることも気になった。自閉症児と同じ位置にとどまってしまうのだった。私のやりたい「人に寄り添うこと」とは違う。そこで服飾デザインに挑戦しようと考えた。
「行くから!」と高らかに宣言して、夜間の専門学校へ。大学(3年次)授業のあと夜7時から9時まで専門学校へ丸1年間、ダブルスクールを続けた。学費を稼ぐためにアルバイトもした。一年が過ぎて大学4年生に。デザイン職として会社に入るには、まだ教育も資格も足りない。たった一年勉強しただけだ。
「もっと知りたい!もっとやりたい」
【心斎橋からパリへ】
専門学校の保護者会で、彼女の作品やデザイン画、生地などポートフォリオを見てびっくりした母の後押し、卒論のためのゼミを自宅でという大学の計らいもあり、もう一年、2年分をぎゅっと詰め込んで勉強することになった。
アパートで画板を引きひたすら課題を仕上げる毎日。食べるものはコンビニフード(片付ける時間も惜しかった)。寝るのは画板をどけたスペース。2年分授業の一年が過ぎ、仕上げのもう一年。国内でもできるが学費も同じなら、いっそ海外に出よう。 ロンドン・・・奇抜すぎるし生活費も高い。ニューヨーク・・・ビジネスぽすぎるデザインが合わない。消去法でパリへ、2002年、単身渡仏。
【パリでémiko.hが発進】
パリという消去法は正解だった。日本では「こう作れば良い成績がもらえる」という一種の予定調和があった。作るものが、どこか自分自身ではないという違和感。だがパリでは素材もかたちも色も、すべて自由。一気に“h”が解き放たれた。
「もっとやっていいんだ!と思いましたね」 そのころ女の子がうさぎを引きずっているイメージがやってきて『m. lapin(ムッシュー・ラパン)』が生まれた。
パリのマルシェで古着の山の中から生地を選ぶ。自由にコーディネイトする。情報過多な日本にはない情感を素直に表現できる楽しさ。モード学校のATELIER CHARDON SAVARDのディプロム取得(卒業)の翌日、セレクトショップ「Chez martin(シェ・マルタン)」のオーナーに作品見せた。その場で気に入られた。その日から作品を展示販売。『émiko.h』ブランドの発進である。
【“émiko.h”を立ち上げる】
『COSMOPOLITAN』『NOVA』などフランスの雑誌に次々に作品が紹介され、インタビューも掲載。パリのギャラリーでコレクション発表、展示・販売も続いた。そこでの評価が日本に“逆輸入”された。だが帰国をすると冷たい目線が待ち受けていた。
「どこに行っても、“なぜパリに留まらなかったの?” “帰ることなかったんじゃないと言われたんですよ」
ソトモノ扱いされた。テキスタイル・デザイナーとして入職した企業では生地選び、企画・買い付けなどやりがいはあったが、“糸から自由に”というémiko.hさんはまったく息をすることができなかった。通訳、バイヤー、接待に便利な人。このままでは「自分がなくなる」。そう思って辞めた。
2007年、“emiko.h”、ものづくりびとのブランドを再開。小物にこめる気持ち、ひとりひとりのお客さまに向き合って、「こんな色が似合いそう」「この方、もっとちがうイメージにもなるのに」とオーダーメイドする手作りの“h”、どちらもハートをこめる。制作・展示だけでなく、アートプロジェクトも手がける。
ある日、高尾山に登った。その豊かな自然や生態系を破壊するトンネル工事があることを知らなかった。だから「山にごめんね」と言いながら登った。帰りの電車がとても白々しかった。みんな見て見ぬふりをするひとばかりだ。中吊り広告には奇抜な色彩や暴力的なことばばかり。その代わりにアートがあったらどうだろう?
「山から夢をもらいました」
2009年3月の『Train-art Project』を開いた。岡山電気鉄道の路面電車“kuro”に、自然を描いたフェルトアートを展示。kuroは市内を10日間走り、沿線に“アッシュ”なイメージを広めた。みんながヒーリング(癒し)な軌道に乗ってくれるように。
(uttelier go 2009.10.21 2600文字)
その他の作品
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3つの質問
- クリエイターになるための最大の投資は?
- みんなすでに、自分たちの人生を作っているという意味で、クリエーターだと思います。あえてあげるとすれば、自分がすきなこと、心地よいことを、躊躇せず、追及することでしょうか。
- 作品制作でこだわっていることは?
- 素材、色合いの心地よさ。楽しいかどうか。オーダーの場合は、受け取る相手がまずあって、わたしは黒子になること。
- スランプになったときはどうする?
- 最近、「スランプ」と思ったことはないのですが、作りたいものがないなぁ、というときは、つくりません。自然へ出かけたり、犬と遊んだり、友達と会ったり。つくりたくなったら、またつくります。

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パリ色キャンドル。
和紙の壁でいい夢をみませんか